私は、ある探求活動の最中にいる。
書道 を志したのは遅い。大学で教育を学んでいた頃、日本では不登校の子どもたちが年々増える中、そんな子どもたちが集まる“フリースクール”と呼ばれている場所で、私はアルバイトをしていた。不安そうな眼をして、おそるおそる自分のことを語る子どもたちを見る中で、私は、そんな子どもたちが生きる力を取り戻す方法はないものかと考えていた。
そして私は、大学を卒業してから書道を志した。そのとき何故、 書道 を選んだのか、明確な理由はわからない。幼い頃好きだった書道の快感を思い出したからかもしれない。自分の文化について詳しく語れない自分を不甲斐なく思ったからかもしれない。それは直感的な選択だった。
それから私はずっと、ある探求活動の中にいる。何故、日本人は書道 を続けてきたのか。書道 から日本人は何を学んできたのか。書道 を通して、今、子どもたちにパワーを与えることができるのか。
これらの問いに普遍的な回答はない。あるのは、ただ私の拙い書道 経験と、幾ばくかの読書から得た知識のみである。ただそれでも、伝えたいことがある。書道が、単なる模倣に過ぎないつまらないものとして捉えられることは淋しい。書道は楽しいものである。その体験は、人間を底から甦らせるような力を持つ。書道には、毎日を幸せに生きていくためのヒントが、ふんだんに盛り込まれている。
書に臨むとき、まずはその手本を観察することから始まる。一点画に集中し、「うむ、この点は左から下りているな」といった細かな観察が行われていく。そうした万全の観察を以てして生まれた一枚は、眺めてみるに墨量に欠け、線が揺らぎ、力がない。今度は、墨量を増やして大胆に腕を動かすように書いてみたりする。そうすると、墨がにじみ、字にまとまりがなくなって、また頭を悩ませることになる。あれやこれやと考えて、因果関係を見出そうとすればするほど、どつぼにはまっていく。私はただ、あれやこれやの工夫を続けながら、何枚も何枚も際限なく書き進めていく。
そうして数時間、あるいは数日書き続けていると、「あれ」と思う瞬間がやってくる。ふっと力が抜け、筆が流れに乗り、墨継ぎのタイミングが自然とやってくる。速く書いているのにじっくりと手本を見る余裕ある。先ほどまでのあれやこれやの工夫は嘘のようで、まるで、自分が最新の書道マシーンにでもなったような気分である。そのとき、私は「誰かに書かされているような」気分になる。神か、仏か、天か知れないが、いずれせよ、この世のものではない、何か超越したものの力を感じる。何とも言えない快感である。音楽のようで、ダンスのようで、水の中をただ自然のままに流されるようで、とにかく楽しい。
そんなふうにして完成された書は、自由に満ちて、美しい。点画が踊るようでありながら、墨は重量があり、澄んでいる。そんな一枚に出会えたとき、私は感謝の念に満たされる。ああ、ありがとう。私に力を与えてくれた、筆よ、紙よ、私の身体よ。漢字を引き継いできてくれたすべての人びとよ、私を動かしてくれた何者かよ、天よ、宇宙よ、ありがとう。
人は誰しも欲望があり、不安を抱えている。物質には際限があって何もが手に入る訳でもなく、他人の心は変えられるものでもない。人は誰しも自由に生きたいと願っているが、互いに自由を認め合うことは難しく、毎日はその葛藤の連続であるのかもしれない。
日本において書は、「 書道 」として、修養の方法として重んじられてきた。書道を通して、日本人は何を鍛えてきたのだろう。観察を行うこと、他者に学ぶこと、実践を通してしか到達できない境地があること。自然の流れに身を任せること。すべてのものに感謝すること。そこに、日本の創造性(=クリエイティビティ)と呼ぶべきものがあるのではないかと、私は今、考えている。世界に讃えられる日本のものづくりを育ててきた創造性は、他人の力も、自然の力も、流れに身を任せるままに自分の内部へと取り込み、畏怖と感謝の念でまとめあげることで生まれ得るのではないだろうか。
「私は何の為に生きているのだろう?」。そんな問いが、若者たちを苦しめているかもしれない。そんなとき、筆をとって、紙をとって、書いてみてほしい。書き続けてみてほしい。ただひたすら書き続けることの先に、達する喜びがある。ただ生きていく毎日の先に、辿りつく幸せがある。そんなふうに生きることができるとき、人は強いのかもしれない。自由なのかもしれない。そんな人びとが創っていく世界があるのかもしれない。
そんなことを教えてくれた 書道 に、私は今日も、励んでいく。